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[5240] もう七年経つんですね。 (14 レス) 2002/01/17(Thu) 22:18:17 |
皇帝スーパーブラックバード さん |
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今朝何故かAM5:30に目が覚めて何気なくカレンダーを見やり・・・「そうか、今日は1月17日だったのか・・・」 思い返せば7年前の今日、阪神・淡路大震災が起こったんですね。 当時私は神戸市長田区の北部に住んでまして、兵庫区海沿いにある会社に通ってました。 地震で叩き起こされて、恐ろしくて部屋に戻れず家のすぐ近くのコンビニの前に行ったら沢山の人が・・・ 山越に見る西の空や南東の街は真っ赤に燃えていて、情報が入らないながらもただ事でないことを思わせました。 ほかの人たちも空を見上げては不安そうにあちらこちらでひそひそと言葉を交わしてました。 電池式ラジオを持ってる人がいて放送に耳を傾けましたが入ってくるのは断片的な情報ばかり。 何はともあれ会社に行こうと思い立ったのですが当然ながらバスが来る訳もなく朝9:00頃にバイクで会社に向かいました。 長田区中心部まで来たとき、行き先の道が炎に包まれていて通行不能。和田岬まで迂回して会社に行きました。 途中垂れていた高圧線で首を吊りそうになったり橋の段差でジャンプしたりと散々な目にあったのを今でも良く覚えてます。 その後会社を退職して結局広島に戻りましたが。 今日NHKスペシャルで御蔵地区の特集をやってまして、ふとカキコしようと思い立ちました。 犠牲になった6432人のご冥福を心よりお祈り申し上げます・・・ 1. i96968 2002/01/17(Thu) 22:32:25
東灘区に親戚が住んでまして、あの日から夜になると安否情報をずっと見てました。
「名前あったか?」「まだ」「じゃ、まだ生きてるかもしれんな…」 結局安否が確認できたのは2週間後でした… ワシは当時大阪・西成のアパートに住んでたんですが、最初のゆれでアパートの壁にひび入るわテレビ落っこちてブラウン管割れるわで「ただ事じゃない」と実感したのを覚えてます。次の日会社を休んで神戸に住んでた連れにお水持っていこうとしたら通行止めで結局たどり着けなかったり、部屋焼きだされた友達が避難してきたり、取引先で仲の良かった人がお母さんと生まれたばかりの娘さん同時に亡くしたって聞いて絶句したり…。色々思い出しちゃいます。
もう7年たつんですね。 3. 皇帝スーパーブラックバード 2002/01/17(Thu) 23:04:25
その日の夜はいつ余震が来ても逃げ出せるよう、現金や冬服、はては9821As/U2の内蔵IDE-HDD(!?)までタンクバッグに押し込み、まんじりともせず夜を過ごしましたね。
何度もうとうと・・・としかけたところでグラグラっときてまた目が覚める。流石に次の日「これじゃ寝られん」と、加古川のツレのところに泊めて貰いました。帰りに加古川市内で食料を調達しようと走り回り回りましたが入手できたのはカロリーメイトと午後の紅茶ミルクティーのみ。1週間これだけで過ごしました・・・ 4. Epion【Selena】研究室 2002/01/17(Thu) 23:49:18
1月17日,いまだに忘れずになにかしらの感慨を持って迎える日ですね.
今年はちと忙しくてぴったりには出来ませんでしたが,地震の起こった時刻に流れる番組にあわせて黙祷をしてみたり. ・・・ホントにささやかなもんですけどね(^^;) 自分のいた所は神戸をちょうど対岸に拝む湾岸部にあって,揺れこそきつかったものの特に目立った被害もなく無事でしたがそのあと飛び込んでくる情報を前に我が事のように震えが止まらなかったのを覚えてます. あれ以来,いまだに関連の番組(プラスの話題もマイナスの話題も)をみていると目頭が熱くなるものを感じつつ見入ってしまいますね. 伊丹駅近所に住んでいて、幸い町内に犠牲者が出ませんでしたが、建物は全滅
数日後に親戚からの電話で駅に電車が刺さっている事を知りました。 その時は、結婚はしてなくて、尼崎に住んでいた相方の実家に駆けつけますと 相方は寝ていたそうです・・・(滝汗 その相方も長田区在住の兄夫婦が行方不明で大変な思いをしてましたわ 7. こういち@BD5B-RS 2002/01/18(Fri) 01:16:01
その日は前日の豆腐の売れ行きが好調で、1/17日早朝分に作った豆腐もラベルを打ち替えて完売したとの報告を受けていたので(前日は交休でした)、大豆の仕込みのため6:05の始発に間に合うよう起きていました。5:46は丁度玄関を出ようとしていたときだったんですが、大きな揺れにPC-9801RX4を心配して部屋に戻ると、ベットの枕のところにラジカセ(といっても15キロくらいはある重たいもの)が落ちてきていました。ゾォ〜〜。
三田でもJRは止まっているし、信号はついてないしで、お店に「行けませ〜ん」と連絡したら、「あんたの豆腐屋は大豆があふれてぐちゃぐちゃだからはってでも来い」と言われ、西谷→猪名川回りで4時間かけてなんとか川西阪急まで。店内は自家発電の非常照明以外は全て停電しているので、要冷蔵食品の退避とショーケースの片付け、こぼれた大豆の廃棄などしているうちに1/4くらいの社員も出勤してきて他フロアの片付けをしてから店員食堂に集合すると、向かいのジャスコがスプリンクラーの破損で水吹いていました。結局川西市は午後にガス漏れにより避難勧告が出されたため、開店をあきらめ全員午後4時に退社。タクシーなどでかけつけた社員を送りながら家に着いたのは午後11時をまわっていました。翌日は開店したものの、当然商品がはいってくるわけでなし、ジャスコは地盤沈下と水道管破裂で当分開店は無理、ということで線路向こうの西友とウチで引き受けたためあっというまに売り切れ。冷凍食品のみが残っているというような状態でした。大変だったけど、非常に印象強く心にのこっております。 翌日からは、1/16までに受け付けたギフトの直配を電車&徒歩で行いました。(ガスがとまっているので豆腐が作れないため、あちこちの応援にまわっていました)武庫之荘あたりでは上から落ちてくるガラス片にあたったり、大阪の北花田?では斜めに傾いたビルにのぼったりと大変だったことを覚えております。 長文失礼しました。 8. 皇帝スーパーブラックバード 2002/01/18(Fri) 01:25:33
>相方は寝ていたそうです・・・(滝汗
私のツレですが、彼も気づかなかったそうです。 ただ、ヤツの住処は東灘区JR住吉駅北側・・・震度7で目覚めない? 私は奈良に住んでいたので大きな被害はなかったですが(ここでは震度4でした)山で雉が騒ぎ出した次の瞬間に起きたあの大きな揺れは今でもハッキリ憶えています。
幸いなことに神戸方面に住んでいた友人・知人は無事でした。 しかし最近になって震災をきっかけに恩人の方の人生が変わってしまったことを知りました。 この頃親が単身赴任で東京にいたのですが向こうからは全く電話がつながらなかったそうです。 #その3ヶ月後に地下鉄サリン事件が起きて今度はこちらからの電話が全くつながらず逆の立場になってしまったのですがそれはまた別の話です・・・。 10. sagiyama@RvII 2002/01/18(Fri) 06:45:11
当時は豊中在住。メチャ揺れました。神戸の実家にすぐさま電話。生きていました。落ち着いてもう一度かけ直すともう通話不可能な状態。(親はその後仮設暮らしをしていました)
会社に行って一日仕事にならず。 翌々日(?)東灘の同僚に食料を届けに自転車で行きましたが、道路を人が大勢歩いているのを見て中国に来た錯覚にとらわれました。 大勢の人が必死になって動き回る姿に、不覚にも涙。 「神戸がんばれ」と心の中で叫びながら自転車こいでました。 ちなみに会社でも、当日全容がわからないまま早朝、沖縄と松本に出張に行ったヤツラがいて、おのおの家族に後でこっぴどく詰められたそうな・・・。 両親が福井地震の被災者でしかも父は建築家なので、「お前たちも見ておきなさい」と二週間後に現地を訪れました。
辺りはほこりっぽく、かつては建造物であったはずの、灰色と茶色が混ざった、山、山、山。 家、ビル、道、高架、駅、線路、港、ありとあらゆるものが破壊されている様には息が詰まりました。 倒れた家の近くには、ガードレールなどに書き置きが多く見られました。家族に避難場所を知らせるためのもの。 「カメラを向けないでください」他、マスコミや場違いな観光客を非難する看板もありました。 人が自己と他人との記憶の相互作用によって生じる存在だとするならば、世界とは主観的な意味において、他人とのネットワークの精神的・物理的広がりと言えるでしょう。 あの日、命が助かったとしても、世界と自分を同時に失った人は膨大なものでしょう。 亡くなった方々に改めてご冥福をお祈りします。また、復興に取り組んでおられる方々、及び疲れてしまった方々に、被災二世からエールをお送りいたします。 当時、宝塚在住。最初は雷が落ちたのかを思いました。
震度6地域になるのかな?うちの家は。 本棚倒壊、食器全滅でしたが、幸いそこまででした。 電気と水道は17日の朝には復旧したので、テレビをつければ 神戸の状況が映っていて、すごくショックだったのを覚えています。 次は南海地震と東海地震ですか・・・もう勘弁して欲しいです。 13. 風 早彦 2002/01/18(Fri) 11:41:41
今も当時も尼崎、当日は後期試験の初日でした。で、在阪各校は軒並み
後期試験を中止する中、うちの学校(名神の上にあるアレ)は、翌々日 からの試験再開を決め、その発表は大学での掲示だけでした(ーー; 大学職員にあとから聞くと、明日生きるのをどうしようなんて状態だと は思わなかったそうです。うちの大学職員の大半は淀川の東側なんで えっぴー氏のように愕然となってくれた人もいたと思うんですが、大半 は他人事のように思っていたようで、悲しくなりました。 ほかにもおいらは家の仕事の都合などで、震災後の行政や企業の暗部 などを見すぎてしまって、なんか大変無い詐害で犠牲者が〜というよ りも、人間の嫌な部分が剥き出しになった災害としか、見れなくなって しまいました。 大阪で下宿をしてました・・・当日提出用レポートの作成中(^^;
うとうとしかけたところにあの激しい揺れ。頭の上に段ボールが落ちてきました。 すぐにTV、ラジオをつけましたが、なかなか情報が放送されず、やきもきしました。幸い実家のある三田は無事でしたが、そこまでに至る道が破断され、かなり遠回りをして往復した記憶があります。 >試験再開 あちらにいた友人が多かったのですが、幸い皆無事でした。が、大学は薄情者で、最初は試験に受けにこれなかったからと、留年決定。その後撤廃されましたが、前期の成績と同じ成績と判断したので、単位を落とした友人が多数。友人含めて助けに行きたかったのですが、そいう行為は許されない雰囲気でした。>こういう事もあっていまいち好きになれない大学であった。 >暗部 関係者と知り合ったのは数年前ですが、いろいろ聞きました。こんなとこでは口外出来ませんがね。 |