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[2431] 「米百俵の精神」の精神 (17 レス)
2001/06/08(Fri) 21:32:14
sagiyama さん
Web: (none)
今日、長岡のひとから小泉首相が初心表明で引用した、「米百俵の精神」を自慢する話を聞きました。

でも、長岡が戊辰戦争で悲惨な目にあったのは、河合継之助ってのがいて、外国から最新兵器(ガソリング砲?)を買って、市街戦をやって町をむちゃくちゃにした挙句破れたからですよね。
その後、米百俵の美談が生まれるんですけど、自分たちだけで盛り上がるのは結構ですが、対外的に「長岡にはこんな美談があります」って自慢するのは、ちょっと歴史を歪曲し過ぎのような気がします。
ガソリング砲買う金で学校作れば良かったのでは・・・・。

(米百俵の精神)
戊辰戦争で破れた長岡藩が食べ物に困ってる中、米の援助が届いたが、藩の重役小林虎三郎は「この米は全部売って学校を作る」と言って国漢学校を設立し、多くの人材を育て上げた。

1. ペンチアム 2001/06/08(Fri) 21:47:23
ガソリング砲というのは今で言うガトリングでしょうかね。
ガトリングなぞ手を出さずに貯めて貯めてキャノンを一発…(違
#例の中華ロボゲー、みいそ謹製PaPeRoも出演しているようで。

2. i96968 2001/06/08(Fri) 21:51:57
>河合継之助
いや、彼は非戦論者だったんです。
で、政府軍の総指揮官に「長岡藩は戦いたくない。戦闘をせずに長岡を通過してくれれば奥羽越列藩同盟の諸藩にも戦わないことを呼びかける」と切り出したのですが、「田舎侍が笑止千万」と一蹴され、戦わざるをえなくなったのです。
もう一人の長岡の有名人、山本五十六提督と同じ運命だったわけですね。
戦いたくない、でもやらねばならないのなら徹底的にやる。その結果長岡は戊辰戦争、第2次大戦と焼け尽くされ、今日に至るわけです。

個人的には山本五十六と並び称されても良い先駆者だったと思います。sagiyama さんの様な感情が長岡でも強く、長岡の中心に記念公園のある山本提督とは対照的に、彼の記念館は長岡にはありません。彼の記念館は福島県の山奥、彼の亡くなった地の近くに建てられ、長岡の人は殆どその存在すら知りません。私は、長岡の人にこそ、長岡を愛し続けた彼を評価して欲しいのですが…。

3. BVV5 2001/06/08(Fri) 21:57:46
なんか、日本の歴史の教科書の悪いところの典型のような話です。
こと善悪を抜きにして自国の歴史を知りほこりに思うにだれはばかることなからんや。
お隣の国の教科書も凄いこと書いてあるらしい。
毛沢東は、アサハラショウコウ並の奇跡を起こした人らしい。
(私は中文は読めませんので読める人に聞いた話)

4. i96968 2001/06/08(Fri) 22:54:40
そうですかねぇ…時の官軍軍監・岩村高俊さえ功に走らず河井継之助の言うことを聞いていれば、あの悲惨な会津戦争もなく、明治維新はもっとスムーズに行われたはずなのですが。
それに、彼は長岡城でなく光福寺というところに本陣を張り、長岡の町が戦火に焼かれることを避けようとしたのですが…それなのに長岡城を攻め、城下を戦火にさらしたのは官軍なのですがね…

5. chiki 2001/06/08(Fri) 23:42:01
誰が悪いとかは後の人たちが勝手に決めたことで、当人たちにしてみればそれぞれ自分の正義だったのでしょう。良きにしろ悪るきにしろ

6. i96968 2001/06/09(Sat) 00:20:44
>当人たちにしてみればそれぞれ自分の正義だったのでしょう。
その通りだと思います。ただ、議論は正確な(と思われる)認識の元で行いたいな、と…
>河合継之助ってのがいて、外国から最新兵器(ガソリング砲?)を
>買って、市街戦をやって町をむちゃくちゃにした挙句破れたからですよね。
これが誤解ではないかと思ったもので…つい m(_ _)m

>対外的に「長岡にはこんな美談があります」って自慢する
私もこれは(とっても)イヤです。

7. JIVE 2001/06/09(Sat) 01:13:52
河合継之助を中心とした描き方をする文献などを参考にするとやむを得ず戦った→結果数に勝る官軍に敗れた、となるようですが、実際の所は、彼は長岡藩に強力な軍事力を持たせ、その軍事力を背景に奥羽越列藩同盟と官軍との間の仲介役となり、後の時代の長岡藩の立場を強くすることを狙っていたという見方の方が自然なようです。戊辰戦争以前の長岡藩は幕府でも老中職など割合要職を任される、典型的な佐幕派だったのですが、藩主牧野氏が河合の富国強兵策を採用し、幕府側から距離を置き武力の充実を図ったため、薩長側からも佐幕派からもその武力をアテにされてしまった、そのため戦争に加わらざるを得なくなった、という流れでしょう。
 なお、小林虎三郎は若い頃から河合継之助とは方針を真っ向から対立させていた人物で、佐久間象山門下では吉田松陰と並び称される優秀な人物だったものの、若い頃に幕府に意見書を提出し、それが藩主の機嫌を損ねて長らく不遇の生活を送っていた人物。河合が富国強兵策を押し進めている頃からその著作で「米百俵」の主義を主張していました。戊辰戦争の敗戦で藩の有力な家臣の大部分が戦死し、藩内に唯一残った有力者であった小林が実権を握ったために、長岡藩のその後の方針が大きく変わったのです。
 河合が長岡を愛していたのは間違いないのでしょうが、美談にはほど遠いような気がしますね。

8. oyoshi 2001/06/09(Sat) 01:31:26
司馬遼太郎の「峠」では、「やむを得ず戦った」ように描かれていますね。 陰惨を極めた戦いだったようです。 「峠」に関わらず、司馬さんの小説は、主人公の立場に立って描くというのが基本のようですが。

9. かすが☆。 2001/06/09(Sat) 01:43:29
勝てば官軍なのは、いつの時代も同じです。。。

10. おおあめ 2001/06/09(Sat) 01:52:13
河合継之助自身は有能だったらしいのですが・・・なんせガトリング砲の値段が高すぎ・・・こんなもんかってないで普通の鉄砲買ったらどうですか?といいたい。

11. i96968 2001/06/09(Sat) 02:13:16
>美談にはほど遠い
いや、美談(→米百俵)になってるのは小林虎三郎の方で、河井(河合ではありません、念のため)継之助はJIVEさん仰るとおりの人物です。彼は決して美談の主ではなく、現実的な思考をする有能な家老です。彼の立場からすれば官軍、奥羽越列藩同盟どちらとも事を構えるのは得策でなく、特に官軍側についたとなればそれは奥羽越列藩同盟にとってみれば紛れもない裏切りです。従って「長岡藩は戦いたくない。会津藩を説得するまで待ってくれ。」となるわけです。
しかし、彼が有能かつ長岡を愛していたことに変わりはなく、彼への(色々な意味での)評価が地元長岡で低すぎるのではないか?と思った次第です。

12. とおりすがり 2001/06/09(Sat) 02:50:57
>勝てば官軍なのは、いつの時代も同じです。。。
こんな知ったかぶりなら,誰にでも言えますな...

13. sagiyama 2001/06/09(Sat) 07:15:54
皆さんも言われていますが、河井継之助って不思議な人物で、司馬遼太郎の小説で全国的にファンがいるのに、地元の若い人たちにはほとんど知られていない。学生の面接で「君は長岡か・・・、河井継之助ってえらい人がいたね」「・・・・・??」という感じらしいです。

私は、小林や「米百俵の精神」はすばらしいと思いますし、それを地元の人が誇りに思うことは当然だと思うし、首相が引用したことも時宜を得たことだと思います。また、河井継之助のやったことは(評価や経緯は別にしても、結果だけ見れば)みなさん認識にずれはない気がします。

ただ、長岡の人が尻馬に乗って全国的にPRすること自体に嫌悪感を覚えます。河井継之助のことを(批判する以前に)教えない態度の人たちが・・・です。

さらに、学校の重要性がわかっていたのなら、なぜ平時に学校を立てなかったのですか?と言いたい。池田光正の閑谷学校は別格にしても、各地で「郷学」と言った形で学校は建てられています。危急存亡のときに学校を建てたのがすばらしいなら、平時に学校を立てた人はもっとすばらしいはずです。

今後、長岡(出身)の人が全国で「君は長岡か、米百俵はすばらしいが、河井継之助は・・・」「河井継之助って誰ですか?」「・・・・」というような会話が頻発するような気がします。

14. あにえす 2001/06/09(Sat) 13:35:21
ROMって4年、長岡の話がでたので書き込みます。長岡は地元です。
河合継之助は小学校か中学校でしっかり習いましたよ。10年ほど前ですが。なので
全国的に知られている人かと思いつつ習う→他の地域に行って実は結構ローカルだと知る→そんななかで知っている人と少々盛り上がる。
「河井継之助って誰ですか?」はひょっとして教えていなかった学校があるのか、勉強嫌いな方かも・・
ただ、彼に対して特別なにか思いがあるわけでなく、歴史上の一人物として知っている、という捉え方の人が大半かもしれません。私もですが(^^;

15. り・がずぃ 2001/06/09(Sat) 13:42:39
一長岡市民として、少々意見を。

私はこの地に移り住んで一年少々の学生ですが、河井継之助のことを知っております。街の観光パンフレットを見ると、山本五十六や小林虎三郎と並んでその名を度々目にしますし、決して知られていないわけでも愛されていないわけでもありません。本屋を覗けば、河井継之助関連の書籍があふれています。知らない人間がいることは確かですが、こうして知っている人間も確かにいます。一部だけを見て「長岡は郷土の偉人すら教えない」と判断することだけはやめていただきたいのです。

また、行動の結果はどうあれ、河井は長岡のことを愛し、真剣に考えて行動した人物には違いありません。その意味では、郷土の偉人と言っていいかと思います。現在に生きる人間はいくらでも過去を批判できるかもしれませんが、当時には当時の考えや状況があったはずですし、結果だけ見て「悪」と決めつけるのは間違っているかと。我々が出来るのは、歴史を教訓にして、二度と間違いを繰り返さないようにするだけではないでしょうか。

 ただ、小泉首相の発言により有名になってしまい、調子に乗っている(?)のは確かにいただけませんね。ですが大半の市民にとっては「あ、有名になっちゃったんだ」という認識でしょう。躍起になっているのは役所とかだけで、普通の市民は別に尻馬に乗っているわけもありません。そこが少々気になりました。

 最後になりましたが、皆様の書き込みを読ませていただき、大変勉強になりました。ありがとうございます。

16. sagiyama 2001/06/09(Sat) 15:09:51
地元の方々コメントいただいて、河井継之助の地元での扱いについて誤解していたことがわかりました。申し訳ないです。
いろいろ調べてみましたが
http://www1e.mesh.ne.jp/nice/library/ce/koramu/kora43.html
が出てきましたが、やはり「知らない生徒がたまにいる」程度なのですね。「峠」を読んだ後、地元では英雄扱いされていないということを聞いたことがあり、「ちゃんと教えていない」と思い込んでしまったようです。最後に、
>躍起になっているのは役所とかだけで、普通の市民は別に尻馬に
>乗っているわけもありません。そこが少々気になりました。
ですこしすくわれたような気がします。あにえすさん、り・がすいさん、ありがとうございました。

17. i96968 2001/06/09(Sat) 17:06:01
あ、長岡の方のコメントが…。私も長岡の方の気持ちを誤解してたのかな…。すみません。


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